⑨藤木橋
「与謝野晶子の橋」
「与謝野晶子(1878~1942)は静養を兼ねて有賀精(つとむ)氏所有の真珠荘(湯河原の吉浜)に幾度となく訪ねていました。温泉場へ体調が優れない晶子を心配した有賀氏が中西旅館での静養を勧めました。晶子は盲腸の手術を東京の神田駿河台にある三楽病院で受けて予後が良くなかったのです。
ある日、晶子が宿に帰ろうと藤木橋に差し掛かったころ中西旅館では宴会が行われていました。
「自分の夫である与謝野鉄幹はすでに死に、私は体調が優れないにもかかわらず、同じ歌人の勲章受勲の宴会が盛大に行われている」宿には帰りたくないと藤木橋から中西旅館を見上げ、短歌へ打ち込む決意をあらたにしたのが藤木橋です。文学を志す人、特に女流作家を目指す人のパワースポットとして人気です。 河鹿鳴く 箱根の嵐 及ぶなる 藤木の川の板橋のもと (箱根の峰から雨を含んだ夏の嵐が川を伝って荒々しく吹いてくる、それを早くも察してあのように河鹿のひときわ高い鳴き声がすることだ)の歌がある。
*河鹿(かじか かじかがえるの意)
ある日、晶子が宿に帰ろうと藤木橋に差し掛かったころ中西旅館では宴会が行われていました。
「自分の夫である与謝野鉄幹はすでに死に、私は体調が優れないにもかかわらず、同じ歌人の勲章受勲の宴会が盛大に行われている」宿には帰りたくないと藤木橋から中西旅館を見上げ、短歌へ打ち込む決意をあらたにしたのが藤木橋です。文学を志す人、特に女流作家を目指す人のパワースポットとして人気です。 河鹿鳴く 箱根の嵐 及ぶなる 藤木の川の板橋のもと (箱根の峰から雨を含んだ夏の嵐が川を伝って荒々しく吹いてくる、それを早くも察してあのように河鹿のひときわ高い鳴き声がすることだ)の歌がある。
*河鹿(かじか かじかがえるの意)
⑩万葉公園
「万葉集に歌われた草花が見られる公園」
万葉集に歌われた木や草花が植えられたことから佐佐木信綱博士(1872~1963唱歌「夏は来ぬ」作詞、歌人)が万葉公園と名づけました。「日本の歴史公園100 選」に選ばれるこの公園は四季折々の情緒を味わうことができます。2021年に新設された「湯河原惣湯Books and Retreat」で川のせせらぎに耳を傾け万葉のひと時をお楽しみください。公園内には文学の小径や国木田独歩(1871年~1908年)の文学の碑があります。
「湯河原の渓谷に向かったときはさながら雲深く分け入る思いがあった 独歩」これは画家の小杉放庵(ほうあん)(1881年~1964年)が揮毫しています。
入り口左手には「万葉亭」があります。茶室や数寄屋造りの名手として鳴らした堀口捨巳(1895年~1984年)の現存する数少ない作品の一つです。
太上天皇御製歌一首 巻八 一六三七 「はたすすき 尾花逆葺き 黒木もて 造れる室は万代までも」
「湯河原の渓谷に向かったときはさながら雲深く分け入る思いがあった 独歩」これは画家の小杉放庵(ほうあん)(1881年~1964年)が揮毫しています。
入り口左手には「万葉亭」があります。茶室や数寄屋造りの名手として鳴らした堀口捨巳(1895年~1984年)の現存する数少ない作品の一つです。
太上天皇御製歌一首 巻八 一六三七 「はたすすき 尾花逆葺き 黒木もて 造れる室は万代までも」
(意約)
(薄の尾花を逆さにして葺き、黒木でつくったこのたてものはいついつまでもあることであらう)
引用:澤瀉久孝 中央公論社 昭和36年1月30日、八巻、p295
の趣を再現しようとしたもので草葺き皮付きの柱になっています。
⑪富士屋旅館
「三遊亭圓朝が創作した落語の舞台が?」
近代落語の祖、三遊亭圓朝(1839年~1900年。辞世の歌は「今少し遊びたけれどお迎ひに一足お先へハイさようなら」)の愛した旅館です。演目の「名人 長二」は富士屋旅館が舞台になっています。落語家を目指す噺家のみならず、芸能界を目指す方は是非その舞台になった旅館に足を運んでみてください。旧館は国登録有形文化財に指定されてます。また、旅館前の橋から上流に目を向けると赤い橋が連なりビューポイントになっています。
*圓朝が「名人 長二」を書いたことを契機に、続々と文人墨客が湯河原を訪れるようになります。文学に限ればおおむね以下のとおりです。。
・三遊亭圓朝・国木田独歩・夏目漱石・芥川龍之介・谷崎潤一郎・丹羽文雄・志賀直哉・葛西善蔵・犬養健南・里見弴・島崎藤村・谷崎松子・島崎静子・中村星湖・徳田秋声・吉田絃二郎・大岡昇平・松本清張・与謝野晶子・与謝野鉄幹(順不同)
*圓朝が「名人 長二」を書いたことを契機に、続々と文人墨客が湯河原を訪れるようになります。文学に限ればおおむね以下のとおりです。。
・三遊亭圓朝・国木田独歩・夏目漱石・芥川龍之介・谷崎潤一郎・丹羽文雄・志賀直哉・葛西善蔵・犬養健南・里見弴・島崎藤村・谷崎松子・島崎静子・中村星湖・徳田秋声・吉田絃二郎・大岡昇平・松本清張・与謝野晶子・与謝野鉄幹(順不同)
⑫伊藤屋
「湯河原温泉もすべて山の中である」
伊藤屋は1888年(明治21年)創業。文豪 島崎藤村(1872年~1943年)の「夜明け前」の構想が練られた旅館です。門柱・石垣と本館3棟のうち2棟が国登録有形文化財です。
「木曽路はすべて山の中である」の書き出しを知らない人はいないでしょう。
島崎藤村は「夜明け前」の原稿を年4回、中央公論社に渡すと伊藤屋に来て構想を練っていました。それは昭和3年から亡くなるまでの13年間続きました。好んだ部屋番号は旧館の1番です。
妻、藤村静子の藤村回想記『ひとすじの道』には「湯河原温泉の宿を1、2回替わったが、先生は(藤村のこと)伊藤屋の1番の部屋を気に入り、私たちにとって終生忘れ得ぬ部屋となった」と記されています。藤村は2本の軸を伊藤屋に残しています。一本は藤村の愛した小林一茶の句から はつ袷は着心のよきなるに、蛇殿の古き地うち捨てて新しきに着替えたる、カエルが水にも陸にも一丁羅なるに比べて、とかく奢りのさたなり (意訳 初夏の頃となり着古した衣を脱ぎ捨てて、真新しい袷に着替えるのはすがすがしいものだ。蛇が自身の一枚皮を脱ぎ替え、蛙が水陸共用の一枚皮しか持たないのに比べ贅沢である)
別の軸には
わきてながるゝやしほぢの そこにいざよふ うみの琴 しらべも深しもゝかはの よろづのなみを よびあつめ ときみちくればうらゝかに とほくきこゆる はるのしほのね (意訳 幾重にも重なり合って打ち寄せてくる波。底にゆらゆらと聞こえてくる琴(ハープ)の音は深く心まで聞こえてくる。百川(たくさんの川)の波を呼び集め、時が満ちて麗らかに遠くに聞こえてくるのは、春の潮の音であるよ)
「伊藤氏方にありて旧瀬音一章をしるす」と添え書きがあります。
人気の部屋の52番は明治天皇の侍従長であった徳大寺公爵が滞在される為に建てられました。
「木曽路はすべて山の中である」の書き出しを知らない人はいないでしょう。
島崎藤村は「夜明け前」の原稿を年4回、中央公論社に渡すと伊藤屋に来て構想を練っていました。それは昭和3年から亡くなるまでの13年間続きました。好んだ部屋番号は旧館の1番です。
妻、藤村静子の藤村回想記『ひとすじの道』には「湯河原温泉の宿を1、2回替わったが、先生は(藤村のこと)伊藤屋の1番の部屋を気に入り、私たちにとって終生忘れ得ぬ部屋となった」と記されています。藤村は2本の軸を伊藤屋に残しています。一本は藤村の愛した小林一茶の句から はつ袷は着心のよきなるに、蛇殿の古き地うち捨てて新しきに着替えたる、カエルが水にも陸にも一丁羅なるに比べて、とかく奢りのさたなり (意訳 初夏の頃となり着古した衣を脱ぎ捨てて、真新しい袷に着替えるのはすがすがしいものだ。蛇が自身の一枚皮を脱ぎ替え、蛙が水陸共用の一枚皮しか持たないのに比べ贅沢である)
別の軸には
わきてながるゝやしほぢの そこにいざよふ うみの琴 しらべも深しもゝかはの よろづのなみを よびあつめ ときみちくればうらゝかに とほくきこゆる はるのしほのね (意訳 幾重にも重なり合って打ち寄せてくる波。底にゆらゆらと聞こえてくる琴(ハープ)の音は深く心まで聞こえてくる。百川(たくさんの川)の波を呼び集め、時が満ちて麗らかに遠くに聞こえてくるのは、春の潮の音であるよ)
「伊藤氏方にありて旧瀬音一章をしるす」と添え書きがあります。
人気の部屋の52番は明治天皇の侍従長であった徳大寺公爵が滞在される為に建てられました。