MENU
デジタル博物館アプリ

今昔映像館

地図をクリックすると拡大してご覧いただけます

⓭宮下明店街

「名店街ではなく明店街?」

明店街に世界最高峰の技術を誇るピアノ工場がありました。小野ピアノです。「ホル―ゲル」のブランドで今でも名品として世界中のピアニストに愛されています。特にルビンシュタインは小野ピアノを絶賛しました。ヨーロッパでは「ホル―ゲル」と書かれたピアノが大切に弾き継がれています。
戦中、ぜいたく品は敵だとピアノ製造を中止させられ、職人たちは厚木基地に並べられる木造のグライダー製作を強いられました。戦える飛行機が無くなり、グライダーを作り「飛行機はまだある」と思わせるためです。グライダーを作る折にピアノ製作技術は大いに役立ちました。どちらもなめらかな曲線が必要でした。癒しを求めて湯河原に来る音楽家の中には小野ピアノのルーツを探しに訪れる人が少なくありません。
また、何故「名店街」ではなく「明店街」なのでしょうか。
「この商店街にかつて東京電力があって、そこに電柱が積まれていました。その電柱を譲り受け商店街に灯りをともしたので「明」店街なのだ」(おしゃれの店かどやご主人談)とか。

⓮湯河原駅

「湯河原トリビア」

2017年10月に現在の湯河原駅前広場が完成しました。設計は新国立競技場も設計した隈研吾氏です。駅を「縁側」と捉え町と鉄道を繋ぐというコンセプトでデザインされました。
駅舎に目を移せば初代の駅舎は完成直後に関東大震災が起き、倒壊してしまいました。初代の駅舎で唯一残されたものは、駅構内にあります。改札口を背中にホームに向かい東京方面に右側に折れたところにある花崗岩の10個が初代の名残の石です。湯河原トリビアですね

⓯サンサン通り

「駅下通りになるはずだった」

湯河原の人車鉄道駅は門川駅と呼ばれサンサン通りがまだ出来ていない時代に写真の左側ある古道を東京方面に少し行った付近にありました。1910年(明治43年)3月から「」執筆のため天野屋に投宿していた幸徳秋水は同年6月1日に湯河原停車場前(門川駅)で逮捕されました。いわゆる「大逆事件」です。

また、サンサン通りを国道135号線に向かって行くと千歳橋があります。まだ一本橋だったころ慶応大学創設者の福沢諭吉と妻錦が熱海へ行こうと千歳橋を渡っていました。諭吉は渡りきりましたが、錦は一本橋が揺れて千歳川に落ちてしまったのです。以来、家族間では「今年はお母様は落ちませんでしたか」と笑い話として交わされました。今では慶応大学を受験する学生は勿論のこと、受験生は橋を落ちないように渡ると受かると人気のスポットになっています。

実はサンサン通りは「駅下通り」という名前になるところでした。「駅下では暗いから何かいい名前はないか」と考えたところ「太陽に向かうように明るい商店街にしよう」とサンサン通りと名づけられました。(高杉書店ご主人談)

1 2 3

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!