❼両国橋
「湯河原は2国を一瞬で跨ぐことができる」
神奈川県と静岡県に一瞬で行ける場所です。あなたも千歳川の真ん中に立ち、跨いでみてはいかがでしょう。
❽湯河原キネマ
「温泉に映画に俳句にストライキ」
湯河原温泉と映画館は切っても切れない縁があります。映画監督でありながら俳句にたけていた五所兵之助(1902~1981)日本最初のトーキー映画「マダムと女房」の監督。俳号は五所亭)はこの映画館で俳句教室を開くこととなりました。湯河原に俳句が根付いている要因の一つは映画館なのです。また、女優の水の江瀧子(みずのえたきこ、1915年~2009年、女優としても司会者としても活躍した日本を代表するエンターテイナー、また、プロデューサーとして石原裕次郎を発掘したことでも有名)が女性地位向上・労働条件の改善のストライキを起こした(いわゆる桃色争議)時に彼女を支援したのが湯河原の映画館と旅館でした。湯河原の旅館はストライキ参加者全員を泊め共に映画会社相手に戦ったのです。日本映画の歴史に刻まれているのが湯河原なのです。
❾理想郷
「ユートピアを求めて」
旧三菱財閥の岩崎邸に作られたのが、「理想郷」です。作家の山本有三(1887年~1974年)により命名されました。山本有三は三鷹から移り住み晩年の20年ほど、理想郷にて「無事の人」「濁流」書き残しました。閑静な別荘地を歩くと時代をトリップした不思議な感覚を味わえます。
❿川堰橋(かわせぎばし)
「何をせきとめていたの?」
川堰橋の「川堰」は水力発電で水をせき止め、温泉をくみ上げていたことからつけられました。
昭和初期には千歳川に沿って、沢山の水力発電が見られました。また川堰橋は熱海市泉地区とつながる重要な橋でもあります。橋を渡ると伊豆湯河原温泉になります。もう一つの湯河原があります。古くは岩戸山、日金山、十国峠を結ぶ嶺線によって熱海市と湯河原は分かれていました。それが千歳川によって県境とされたのは昭和30年のことです。
昭和初期には千歳川に沿って、沢山の水力発電が見られました。また川堰橋は熱海市泉地区とつながる重要な橋でもあります。橋を渡ると伊豆湯河原温泉になります。もう一つの湯河原があります。古くは岩戸山、日金山、十国峠を結ぶ嶺線によって熱海市と湯河原は分かれていました。それが千歳川によって県境とされたのは昭和30年のことです。
⓫旧 湯河原ホテル
「傷も心も癒します」
日清・日露戦争で負傷した軍人を癒すために湯河原は陸軍に借り上げられました。その数、日清戦争では療養患者数延数で佐尉官1,260名、下士以下30,491名にあがりました。令和現在の湯河原人口より多い軍人が湯河原に来ていたのです。
現在は建て替えられ、ニューウエルシティ湯河原ですが昭和の初めはこんな趣のホテルだったのですね。
現在は建て替えられ、ニューウエルシティ湯河原ですが昭和の初めはこんな趣のホテルだったのですね。
⓬室伏製麺所前
「水車は湯河原に沢山あった」
良質な米や小麦粉が採れた湯河原では、農業用水路を使って米や小麦を粉にする作業は水車が担っていました。
また湯河原には「室伏」姓が多く、各屋号からたくさんの分家があります。
写真の室伏製麺は小田原系ラーメンの元祖です。湯河原のみならず日本中の小田原系ラーメンの元祖が湯河原発であると言えます。また、写真のバス道路(椿ライン)は宮上地区の数百メートルを室伏勝蔵さんの寄付によって開通しました。
また湯河原には「室伏」姓が多く、各屋号からたくさんの分家があります。
写真の室伏製麺は小田原系ラーメンの元祖です。湯河原のみならず日本中の小田原系ラーメンの元祖が湯河原発であると言えます。また、写真のバス道路(椿ライン)は宮上地区の数百メートルを室伏勝蔵さんの寄付によって開通しました。